『刀狩り』&『雑兵たちの戦場』藤木久志

 社会科の教師をしていながら、藤木久志の名を聞いたのは、今年2月の研究会が初めてであった。高校日本史の先生が、歴史の英雄・偉人伝でない民衆の視点に立って歴史を問い直す必要があるのではないかということで紹介された。

 『刀狩り』から印象に残った箇所を記録するならば


刀狩令は村の武器すべてを廃絶する法ではなかった。だからこそ喧嘩停止令は、村に武器があるのを自明の前提として、その剥奪ではなく、それを制御するプログラムとして作動していた。百姓の手元に武器はあるが、それは紛争処理の手段としては使わない。武器で人を殺傷しない。そのことを人々に呼びかける法であった。
○秀吉の刀狩りの後も、なお近世初めの村々には、刀・脇指をはじめ、数多くの武器が残されていた。もし、それを使えば罪になった。だが、所持そのものは、問題にもされなかった。
○17世紀末の村々には、武士がもつ以上に、大量の鉄砲があった。それは害鳥獣を追う農具としての鉄砲であり、時とともに増えていった。この事実を明らかにして、学界に衝撃を与えたのは、塚本学『生類をめぐる政治』であった。
文化庁の公表した数字でみると、銃刀法によって全都道府県に登録された銃刀の数は、1999年度末の段階で、刀は実に231万2000点ほど、銃砲も6万8000挺ほど、総計では238万点ほどにのぼっていた。(中略)これら銃刀法のもとで現存する刀231万本に、占領軍によって消滅した推定300万本の刀を加えると、戦前の日本の「丸腰の民衆」の手には、実に530万本を超える日本刀があったことになる。敗戦直後の1947年、標準世帯数はおよそ1578万であったというから、少なくとも3世帯に1本余りの日本刀が、戦前の私たちの身辺にあったことになる。これでも、秀吉の刀狩りは民衆の武装解除だった、いいきれるだろうか。だが、時として起きる個々の悲惨な逸脱を別にすれば、私たちはこれだけ大量の武器の使用を自ら抑制し凍結しつづけて、今日にいたったわけである。その現実のなかに、武器を長く封印しつづけてきた私たちの、平和の歴史への強い共同意思(市民のコンセンサス)が込められている。少なくとも国内で、私たちが武器を封印しつづけてきたのは、銃刀法の圧力などではなく、私たちの主体的な共同意思であった。  
 
刀狩り―武器を封印した民衆 (岩波新書 新赤版 (965))

刀狩り―武器を封印した民衆 (岩波新書 新赤版 (965))

 『雑兵たちの戦場』から印象に残った箇所を記録するならば
 
○雑兵たちには、御恩も奉公も武士道もなく、たとえ懸命に戦っても、恩賞があるわけでもない。彼らを軍隊につなぎとめ、作戦に利用しようとすれば、戦いのない日に乱取り休暇を設け、落城の後には褒美の掠奪を解禁せざるをえなかったにちがいない。
○謙信は豪雪を天然のバリケードにし、転がり込んだ関東管領の大看板を掲げて戦争を正当化し、越後の人々を率いて雪の国境を越えた。収穫を終えたばかりの雪もない関東では、かりに補給が絶えても何とか食いつなぎ、乱取りもそこそこの稼ぎになった。戦いに勝てば、戦場の乱取りは思いのままだった。こうして、短いときは正月まで、長いときは越後の雪が消えるまで関東で食いつなぎ、何がしかの乱取りの稼ぎを手に国へ帰る。(中略)英雄謙信は、ただの純朴な正義漢や無鉄砲な暴れ大名どころか、雪国の冬を生き抜こうと、他国に戦争という大ベンチャー・ビジネスを企画・実行した救い主、ということになるだろう。
○秀吉が日本の戦場を閉鎖したとたんに朝鮮侵略を始めた、という史実のもつ意味はまことに重い。悪党・海賊・渡り奉公人たちの多くは、新たなより大きい稼ぎ場を求め、再び傭兵となって大名軍とともに海を渡ったようである。あの大がかりな朝鮮の奴隷狩りは、紛れもなくその結果であった。極言すれば、秀吉の平和というのは、国内の戦場にあふれていた巨大な濫妨エネルギーに、新たなはけ口を与えることで実現され、それと引き替えにして、ようやく国内の戦場を閉鎖することができた。だから秀吉は、名誉欲に駆られ、国内統一の余勢をかって、外国へ侵略に乗り出したというより、むしろ国内の戦場を国外(朝鮮)に持ち出すことで、ようやく日本の平和と統一権力を保つことができた、という方が近いことになるだろう。
  

【新版】 雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り (朝日選書(777))

【新版】 雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り (朝日選書(777))