VegeetaM2006-03-10

 1970年3月、私は小学校を卒業した。その「卒業文集」の「もしも私は…」のコーナーで、私は『全共闘の議長だったら、現在のようなデモをしないで、無言のデモをする。そのほうが政府は苦しいだろう。火炎ビンなどを投げないで、市民の人からも出てもらい、国民みんなでデモをし、沖縄早期返還を訴える。』と記している。
 先日、子どもが「『ドラゴン桜』5巻を買って!」というので書店に行った。その折、島泰三の『安田講堂1968-1969』が目に留まった。とても重かった。さまざまなことを考えさせられた。胸が苦しくなった。
 当時母親はよく言ったものだ。「もし、あなたが10年早く産まれていたら…ヘルメットかぶって…ゲバ棒持って…、あのデモの中にいたんだろうね」とか、「あさま山荘事件後のリンチ殺人事件が発覚しなかったなら、あなたはどうなっていたのだろう…」と。


 1969年1月、全共闘と機動隊との間で東大安田講堂の攻防戦が繰り広げられた。その記憶はいまもなお鮮烈である。青年たちはなぜ戦ったのだろうか。必至の敗北とその後の人生における不利益を覚悟して、なぜ彼らは最後まで安田講堂に留まったのか。何を求め、伝え、残そうとしたのか。   
                 『安田講堂1968-1969』背面帯より
 改めて考えてみた。「もしも私が10年早く産まれていたなら…」 同じ大学生として、東大の不当な処分や日大の不正経理を知ったなら… 私はどのような行動をとったのだろう… 当時の状況下にあって、無言のデモで変革できたのだろうか… 私は今もなお、キング牧師の運動は正しいと信じて疑わないものであるが… 力ずくで押してくる「権力」に対して、無言のデモなんかで世に訴えることはできたのだろうか… また、次のようなことも考えてみた。安田講堂攻防戦が眼前に迫った時、もし自分がその渦中にいたとしたら、どのような行動をとったであろうか。この著者:島泰三氏のように『義』に殉じたであろうか?言い訳をつくって、敵前逃亡したのではないかと考えだしたら、読み進めることが辛くなった。

 『連帯を求めて孤立を恐れず
  力及ばずして倒れることを辞さないが
  力尽くさずして挫けることを拒否する』  ―安田講堂内落書き―

 歴史には事実だけが集積されるから、実現しなかったことはなかったことになるのだが、歴史について実現されなかったことを評価する見方があってもいい。
 1960と69年を頂点とした日本の青年たちの反戦・反安保の闘いは、日本の再軍備を阻み、ヴェトナムの戦争に日本の軍隊を派遣することを阻止して、日本がヴェトナム戦後のアジアで平和のなかでの国際貢献を実現することになった。70年代以降、日本の青年たちの叛乱は未然に鎮圧されたために、35年後には日本の軍隊はついに海外に派兵され、アラブの民衆の将来にわたる恨みを買うことになるのと、ちょうど反対である。
写真資料の出典 http://gonta13.at.infoseek.co.jp/newpage141.htm
安田講堂 1968‐1969 (中公新書)

安田講堂 1968‐1969 (中公新書)