上信越自動車道の碓氷軽井沢ICで降り、鬼押ハイウェーを経由して、日本のポンペイと呼ばれる嬬恋・鎌原観音堂を訪ねる。

  • 軽井沢方面からは、どこからでも浅間山が望めた。噴火の際、この浅間山が常に見えるかどうかが被害を大きく左右すると考える。(私の仮説:被害の大きかった鎌原地区は、浅間山が見えにくい地形に位置するのではないか・・・)
  • 浅間火山博物館:観光客に火山の原理・浅間山の噴火の様子を伝えようとする努力は伝ってくるものの、装置・設備等に何となく子どもだましの感を否めず。また、火山を説明するにあたり、専門用語が多く、その用語解説等の展示が少ないと感じた。
  • 鬼押出し園:噴火の激しさを現在に伝える岩海は、見る者を黙らせるのに十分であった。火山博物館では、少々飽きてしまった子どもも目を輝かせていた。こんな大きな岩が落ちてきたならひとたまりもないと実感。
  • 鎌原観音堂:「天めいの生死をわけた十五段」の石段で、子どもにおぶさり「浅間山が噴火して、年取ったお父さんが助けてと言ったら、こうしておぶって一緒に逃げてくれるかな」「うん」「でも、この石段を登りきれば生きられる。登らなければ死んでしまうという時にも、一緒に逃げてくれるかな」「おとうさん、重いからな」「いや、年取って、今よりずっと軽くなっているとして」「そうだな。むずかしいな。迷うだろうな」「迷う時間はないんだ。ものすごい速さで土石流れがやってくる」「ううん」こんな話をしながら石段を登る。観音堂で合掌する。2枚の写真が目に入る。「この写真、何?」「これは、221年前の浅間山が噴火した時の被害者で、この石段の一番下のところで発掘された二つの骸骨を復元したものなんだ」「ふうん」「想像されるところでは、娘さんが年老いたお母さんをおぶって、この石段を登ろうとしたところで、土石流れにやられてしまったらしいんだ」「かわいそうだね」「娘さん一人だったら、助かったかもしれない。でも娘さんは、お母さんをおぶって登った」「どうせ死ぬのなら一緒に死のうと思ったんじゃないかな。石段を全部登ったって、その時は助かるって決まっていたわけじゃないでしょ」
  • 嬬恋郷土資料館:こじんまりとした中にも、天明の「浅間焼け」を現代に伝えていた。子どもも浅間火山博物館以上に「これ何?」「これ何って書いてあるの?」と何度も質問してくる。やはり本物のもつ力か。改めて、装置・設備は副次的なものでしかないと感じる。
  • 鎌原地区の街道沿いから浅間山を望もうとするが、前面に小さな丘があり浅間山を望めない。当時と現在とでは土石流れ等があり地形が変化しているであろうが、私の予想通り、鎌原地区からは、浅間山を望めなかった。このことが住民の避難を遅くし被害を大きくさせたと考えるのだが、いかがなものだろうか・・・。