VegeetaM2007-03-24

 私のお世話になったK校長先生が今春退職を迎える。年上の方に向かって「ご苦労様でした」とか「お疲れ様でした」というのは失礼だし「退職おめでとうございます」もしっくりしない。しかし、何か一言「お世話になりました」だけでも伝えたいと思い電話した。「今から先生の学校にお邪魔してもいいですか…」と。
 すると、K先生は「良かったわ。私の在職中にMさんのトラウマを解消したいと思っていたから…」と言われた。K先生が現在勤務する学校は、私が2校目に着任したN中である。新設校で5年間生活指導主任として在職した。私は心神共に疲れ果て逃げるようにして去った。18年前の離任式以来、一歩も脚を踏み入れていない。踏み入れることができなかったといった方が正しい。『創立10周年の記念誌』に私は次のような文章を寄せた。


 『アルバムのない第5回卒業生』  5年前、N中が一番荒れていた時に、自らの無力を悟り転任した者として、この10年間が決して平坦な道ばかりでなかった事に思いを馳せ、初代校長:S先生をはじめとした諸先生方・主事さん方・PTA役員の方々の学校再建のためのご尽力に対し、心から敬意を表するものであります。
 今、私がN中に在職していた時の事を振り返ろうと卒業アルバムに手を伸ばした時、「ハッ」としました。「1冊しかない!」。第2回生しか卒業させていないのですから当然なのですが…。今も私の夢にしばしば登場し、私を苦しめる第5回生の卒業アルバムが改めてないことに気づいた時、やはり何とも表現しようのない澱のようなものが存在することに気づきました。
 「苦しかった。本当に苦しかった。どうしていいかわからなかった。」それゆえ転任を申し出た。しかし、あの時の5回生が今も一番、年賀状や暑中見舞い状をくれる。そして先日は、当時最も苦労させられたKK君とST君が「足立車検場へ来たら『花畑』って地名があって、思わずMを思い出した。」と言って現任校へ立ち寄ってくれた。二人とも「あの時は、ずいぶんMに逆らったものだよな…」なんて懐かしく昔語りをした。しかし、その時私は、まだ懐かしく語るには想い出が鮮明すぎるのを感じていた。 
 あれから18年の時が流れた。自分から言い出しておきながら、やはり、いよいよとなると心臓の鼓動が早くなるのを感じた。自分一人では舞い戻ってしまうような恐怖感にも襲われ、妻を助手席に乗せて向かった。
 裏庭に車を停めた。白血病で亡くなられたN先生が赤のファミリアを止めていた場所だ。部活動から帰る生徒であろうか、「こんにちは」と声をかけられた。「こんにちは」と返した。
 開校当時の教頭先生が「建てた時より美しく!」というスローガンを掲げ、全員清掃で臨んだものだが、20数年経過した現在の方が格段に美しかった。各所に花が置かれ、心を和ます掲示物に目を見張った。心底驚いた。学校はこんなにも変わるものかと。変われるものかと。
 校長室で、ひとしきりK校長先生とS副校長先生とお話をした後、あつかましくも校内見学をさせていただいた。あたりまえのように男子トイレにも個室があった。古傷を多少残しながらも木製のロッカーは健在であった。夕陽を浴びた廊下は眩しいほどにピカピカに輝いていた。私は今日の来校目的をすっかり忘れていることに気づいた。K校長先生、最後まで迷惑をかけどうしでした。ごめんなさい。
 このようなトラウマを抱えた私の背中を押したものは、K校長先生であることはもちろんですが、もう一人忘れてはならない方がいます。それは第3代PTA会長のWさんです。Wさんが『開校20周年記念誌』に寄せられた文章を読んで目頭を熱くしたことが、今日につながったのだと思います。Wさんの文章の一部を紹介します。

 (略) 開校3〜4年目頃から生徒が荒れるなどと、よく耳にいたしておりましたが、その通りになってまいり、他校と番長争いなど硬派の生徒が増えてきました。また、その子どもたちは大変ケンカが強く、どの学校へ行っても勝ってくるので、一躍区内にN中の名が轟き渡ったものです。こうした中で、他校の生徒がケガをしたりして、校長先生・親御さんと、その学校へ謝罪に出向いたり、教育委員会指導室へ校長先生・生活指導主任の先生と共に怒られにまいったりいたしました。ただ、その時決まって相手の生徒の親御さんは、家の子は良い子なのにとおっしゃいます。その相手の子は、その学校の番長グループなのだから、そんな口はきけないのにと思ったことが何度もありました。
 月日が流れ、今年の夏の盆踊り等にその生徒たちが、子どもの手を引いて見物にきたりして、あいさつをしてくれる立派な社会人となっている姿を見てうれしく思いました。(手のかかる子どもほどかわいいと申しますが…)今だから言える当時の学校のようすですが、良き思い出でもあります。 (略)