テップ・クナル氏へのインタビュー

 テップ・クナル氏は、ポル・ポト派クメール・ルージュ)が、1982年に反ベトナム・反プノンペン傀儡政権を掲げて結成された「民主カンボジア三派連合」(ポル・ポト派ソン・サン派シハヌーク派)時代に、ニューヨークで国連大使を務めた方です。1991年のパリ和平協定の際には、ポル・ポト派事務所のスポークスマンも勤めた方です。 また、彼の妻は、ポル・ポトの後妻であったミヤ・ソム夫人であります。              テップ・クナル氏は、現在、マライ郡の郡長を務められています。マライ郡は人口約
40,000人。90%が旧クメール・ルージュの人たちだということです。そこで、テップ・クナル氏は、将来の子どもたちのために「森の再生」を図ろうと努力されています。
私は今春、山田寛著「ポル・ポト<革命>史」(講談社選書メチエ)を読み、ここで紹介されているテップ・クナル氏と奥田さんとが懇意であると聞いた時から、カンボジアを訪れたならば是非お会いしたいと考えていた人物です。
 しかしながら、テップ・クナル氏は、郡長としての日頃の激務と7月27日・8月3日の「植林」による過労から病床に伏せられていた。よって、私たちを招待しての夕食会(ミヤ・ソム夫人の手料理)も中止となってしまった。私はとても残念であった。
 ところが翌日、5分だけという時間制限の中ではあったが面会が許された。テップ・クナル氏は、自宅で点滴をされていた。素人目に見ても、お疲れの様子が見て取れた。申し訳ないと思いつつ、インタビューをさせていただいた。
Q.このマライ郡で努力されていることを将来的には、カンボジア全土に拡げたいという思いを抱いていらっしゃいますか?
A.カンボジア全土への拡大は考えていません。今は、このマライ郡での「農業改革」をぜひとも成功させたいという気持ちでいっぱいです。
Q.マライ郡の郡長として、着々と「農業改革」が進行していることで、プノンペン政府からのいやがらせ・身の危険のようなものは感じませんか?
A.私は、マライ郡の人たちが少しでも幸福になるようにと努力をしているだけです。私自身の生命の危機のようなものを感じるということはありません。今ここで、一生懸命に生きるだけです。
Q.大変失礼な質問になるかもしれませんが、テップ・クナル氏が所属されていたクメール・ージュを、どのように総括されていますか?
A.農民を中心とした社会改革をめざした理念は間違っていなかったと思います。しかしながら、その具現化を図るための方法については、間違っていたと思います。
 「虐殺と破壊」のクメール・ルージュという先入観が強かっただけに、とっても穏やかで紳士的に振舞われるテップ・クナル氏に会い、心が大きく揺さぶられた。日本からの珍客に対しても、誠意をもって答えるテップ・クナル氏に好感を抱いた。約束の5分を大幅に上回る自宅訪問となってしまったが、私のわがままを聞いてくださったことに対し心より感謝する。「ありがとうございました」次回、訪れた際には、もう少し突っ込んだお話をしたいと強く思った。インタビュー終了後、テップ・クナル氏の裏庭を少し散策した。30秒も歩かないうちに小さな川に出た。川の向こう側はタイであるという。タイがベトナムの侵攻を恐れ、国境警備も兼ね、中間地点にクメール・ルージュを配したということを身をもって感じた。