日本のポンペイ:嬬恋・鎌原観音を訪れた際、浅間山に向かって子どもが呟いた。「おとうさん、あさま山荘って、この辺にあるの?」 天明3年の大噴火のことで、頭がいっぱいであったので、まったく不意を衝かれた。「さあ、あさま山荘っていうくらいだから、きっとこの辺だろうね」と応えるのが精一杯であった。子どもはそれ以降、繰り返し聞くことはなかったが、私の心には澱のように残った。
 帰京後、早速インターネットで検索した。あさま山荘碓井・軽井沢ICからほど近い別荘地の中にあった。事件当時、私は中学2年生であった。機動隊が突入した日は、学年末考査で、学校から帰ってきてから、ずっとテレビを見ていた記憶がある。小学校の卒業文集の「もし、私が・・・」というコーナーで、他の子どもたちが「野球選手とか幼稚園の先生」と書いてある中に、「東大全共闘山本義隆だったら・・・」 と超生意気ざかりの私は書いた。そんな私にとっては、見逃してはならない事件であった。何だか訳も分からず妙に興奮していた。
 しかし、その後の「総括」という名のリンチ殺人事件が明るみになるにつれ、私の興奮は急激に冷めていった。私の母は今も時折「あのあさま山荘事件がなかったなら、あなたはどうなっていたろうね」と言う。ゲバ学生(死語?)になるものと確信していたそうだ。今は亡き父親に相談すると「・・・」と黙して語らなかったそうだ。母は一人で「母親がしっかりしなければ・・・」と思い悩む日々を過ごしたという。
 今日久しぶりに、あさま山荘事件に関するページを読み、32年前の冬を思い出した。もし私がもう少し早く生まれていたならば・・・。もし安保闘争全盛期に生を受けていたならば・・・。私はどのような人生を歩んでいただろうか・・・。何とも表現できない倦怠感のようなものに襲われる中、無為に一日を過ごした。