Ethiopia Study Tour 4

VegeetaM2008-05-00

□朝食をとっていると、激しい雨が降りだした。電気も消えた。停電のようだ。
 朝食を済ませ、出発準備をしてロビーにくると、雨はすでに止んでいた。
 15分降っただろうか。外へ出ると、虹が架かっていた。
 それも二重に。Under the same sky エチオピアと日本とが同じ空の下、
 虹で結ばれているように感じ感動した。
□白鳥夫人が尽力されている「アフリカ理解プロジェクト」の
 『みんなの学校プロジェクト』と「GTF(グディナ・トゥムサ基金)」
 困難に直面している人々の精神的・物質的ニーズに包括的に取り組むことを
 活動の目的にしているNGOが支援しているオロミア州ファンターレ郡で
 生活しているカラユとよばれる牧畜民の初等教育機関を訪ねた。            
□カラユの人々は、1970年以降、郡内の条件の良い土地を大規模農場や
 国立公園として政府に接収され、エチオピアの中でも有数の乾燥した
 過酷自然条件の中で生活しています。
 授業参観後、最上級生である9年生が図書館に集合し交流会をもった。
 その交流会において、教え子が作詞・作曲の“Under the same sky”を披露した。
9年生は英語も学習しているということで、英語の訳詞もあり、
日本とエチオピアは地理的に遠くても同じ空の下に生きる人間なのだと
 説明して終わるものと理解していたところ、
 白鳥さんが、1文節ずつ日本語のローマ字を読んで、
 Repeat after me と日本語指導を始められた。
 Good! Excellent! という励ましに、子どもたちは笑顔で大きな声で唱和した。
 すると突然、「歌唱指導してください」と言われた。
 この音痴な私が歌唱指導するなど思ってもいなかったことなので、
 慌ててしまいうまくできなかった。
 しかし、そんな指導力のない私に対しても、彼らの眼差しは真剣であった。
 テープを巻き戻し、強引にローマ字を追うこととした。
 1回目はボロボロであったのだが、2回目には何とか歌になりつつあった。
 途中で私の心は感動で熱くなり、声が裏返ってしまった。
 初めて聞いた歌をローマ字日本語で必死に追う彼らの姿を教え子である作詞・作曲者にも見せたかった。
 改めて万国共通の音楽の素晴らしさを感じた。真の意味で“Under the same sky”となった瞬間であった。
□カラユの牧畜民の子どもとして生まれ、前述の初等教育機関を経て、
 collegeを卒業したアリアさんの自宅を訪ねた。土壁に藁ぶきという
 教科書にも紹介されているような伝統的な家だ。
 明るい所から急に中へ入った瞬間は真っ暗闇で、何が何だかわからなかったが、
 台所もあり、藁の上に羊の革を敷いた居間もあった。家財道具で目立つものと言ったら、
 水汲み用の黄色いポリタンクのみであった。
 私たち日本人は文明人であることを自負しているのであるが、
 余計なものを持ち過ぎてはいないだろうか。 
 以前、成田先生から幸せの公式を教えていただいたことがある。
 「幸せ=現実/欲望」 私たちの欲望は大きくなりすぎてはいないだろうか。
□その後、メタハラにあるダンディ・グディナ中学校(9/10年生)を訪ねた。
 黒板に文字がびっしりと書き込まれている黒板を見てびっくりした。
 なぜですかと尋ねたところ、教科書が3〜5人に1冊しかないので、
 どうしても書かざるを得ないとのこと。
 エチオピアの子どもたちは苦労しながら学んでいることを実感した。
 その後、同じGTFが行っている環境保全プロジェクトを視察した。
 ふと2003年に西オーストラリア州で植林に携わったホームステイ先:Moffat夫妻のことを思い出した。
 あの5年前、私が植えた木はどうなっているだろうか?
 カンボジアの植林は苦戦を強いられているが・・・
□本日の宿泊先は、ビレンロッジという。
 幹線道路から一歩入ると、タイヤの跡だけを頼りに進んだ。
 そこは大地溝帯の真ん中というようなところで、
 平原の中にポツン・ポツンと藁ぶき小屋が点在する所であった。
 一つの小屋に一人が宿泊するという。少々心細くなったが、
 グッと我慢して、このパソコンに向かいReportを書くこととした。
 文明から最も遠い所に位置してもなお、
 パソコンのキーボードを叩くという何とも愚かしい行為をしている自分が恥ずかしい。
エコツーリズムを実践するビレンロッジは、夜6時から10時までしか電気がつかない。
 食堂で夕食をとった後、自分の小屋に戻るとすべてが真っ暗闇で何も見えない。
 壁面を確かこの辺にスイッチがあったはずと手探りする。なかなか見つからず焦る。
 スイッチを探りあて、電気がついた瞬間の歓びといったなら…。
 電気のありがたみを身をもって体感する。
 われわれの何でも当たり前意識を変えるためには、このような経験が必要なのかもしれない。