ニッポン人脈記 サラブレッドとともに⑥ 朝日新聞夕刊 '06.03.20. 

VegeetaM2006-03-20

 何年ぶりであろう… テンポイントの名を新聞で見るのは… 私から「競馬」を卒業させた想い出の名馬テンポイント。記事を読み、テンポイントが粉雪舞う京都競馬場で骨折したのが1978年1月22日であったことを知った。ということは、私は20歳と2ヶ月で「競馬」を卒業したのだ。あの悪夢のような66.5kgのハンデを背負った「日経新春杯」。「もう私は競馬を卒業しますから、テンポイントの『いのち』を助けてください!」と祈ったものだ。しかし、テンポイントは3月5日に逝ってしまった。私の部屋には今も、テンポイントが勝利した'77年の『有馬記念』の写真(日刊スポーツ)が飾られている。私が鬱々とした浪人生活を送っていた'76年、テンポイントは、皐月賞・ダービーをトウショウボーイに。菊花賞グリーングラスに敗れた。「敗者の美学」的なものに心を揺さぶられた。
 関西テレビ杉本清アナウンサーの実況も好きだった。
'73年 菊花賞 「この坂はゆっくりとゆっくりと下らなければなりません」
'75年 阪神3歳ステークス 「見てくれこの脚 見てくれこの脚 これが関西の期待テンポイントだ」 久しぶりに杉本アナウンサーの『競馬名勝負物語』『テンポイント名勝負物語』のLPレコードを引っ張り出してみた。
 最後に、ベトナムの戦場カメラマン:沢田教一氏と青森高校で同級生であったという寺山修司氏の詩を紹介しよう。


さらば、テンポイント


もし朝が来たら
グリーングラスは霧の中で調教するつもりだった
こんどこそテンポイントに代わって日本一のサラブレッドになるために

もし朝が来たら
印刷工の少年はテンポイント活字で闘志の二字をひろうつもりだった
それをいつもポケットに入れて
弱い自分のはげましにするために

もし朝が来たら
カメラマンはきのう撮った写真を社へもってゆくつもりだった
テンポイントの最後の元気な姿で紙面を飾るために

もし朝が来たら
老人は養老院を出て もう一度じぶんの仕事をさがしにいくつもりだった
「苦しみは変わらない 変わるのは希望だけだ」ということばのために

だが
朝はもう来ない
人はだれも
テンポイントのいななきを
もう二度ときくことはできないのだ
さらば テンポイント

目をつぶると
何もかもが見える
ロンシャン競馬場の満員のスタンドの
喝采に送られてでてゆくおまえの姿が
故郷の牧草の青草にいななくおまえの姿が
そして
人生の空き地で聞いた希望という名の汽笛のひびきが

だが
目をあけても
朝はもう来ない
テンポイント
おまえはもうただの思い出にすぎないのだ
さらば
さらば テンポイント
北の牧場にはきっと流れ星がよく似合うだろう


寺山修司『旅路の果て』より